大河ドラマ「平清盛」 第10話『義清散る』

(あらすじ)
先立っての躰仁親王の誕生祝いでの騒動の際、佐藤義清は待賢門院璋子に迫り愛を語るという暴挙に出た。大それた行為ではあったが、その結果として璋子には確かに情愛の念が目覚め始めていた。

躰仁親王鳥羽院の子であるため、順当に行けば次の帝となることが決まっている。
しかし朝廷は、親王の母である得子の身分の低さを理由に、躰仁親王皇位を認めることを渋っていた。
それを知った得子は早速、関白藤原忠通を篭絡。現在の天皇である崇徳帝と皇后聖子の下に、養子として躰仁親王を預ける。
これにより躰仁親王が次の帝となること、及び得子が国母となることは決定的となった。

朝廷内の権力争いが激化する一方で、それらを警護する北面の武士である清盛や佐藤義清は、改めて朝廷への不満、怒りを募らせていた。
清盛は、憤る義清を見て、彼もまた自分と同じように武士の世を作るという義憤に駆られているのだと考えていたが、義清の心中にあるのは璋子への執着、そして璋子を蔑ろにする鳥羽院への怒りに過ぎなかった。

そんな折、宮中にて雅仁親王を侮辱した得子に、偶然その場に居合わせた璋子が掴み掛かりながら怒りを露わにするという騒動が起こった。
普段から恬然として感情を出すことなどまるで無かった璋子の変貌は、北面の武士たちにまで噂となって伝わり、義清の知るところとなる。
その日は鳥羽院水仙見物に赴くため、北面の武士がその警護に当たることになっていたが、義清は暇をもらい、璋子の元へと向かう。
しかし璋子は、そんな義清を拒絶する。璋子の心が、今もなお鳥羽院の元にあることを悟った義清は、激情に我を忘れ璋子を殺そうとするのだった。

義清の暴挙はすんでのところで清盛によって阻止され、義清はその場から逃がされたが、事はすぐさま露見。義清は鳥羽院の前に連行されることとなった。
あらましを知った鳥羽院であったが、しかし義清を罪に問うことをせず、そのまま放免する。
義清はその裁断の陰に、鳥羽院と璋子の間にある情念を見取り、改めて自分の及んだ行為の醜さに気づく。
自分で自分を許せなくなった義清はその日のうちに出家を決意。家族を捨て、友である清盛の前で髷を切り、姿を消すのであった。

(感想)
ノーリーキーヨー!!

  • 「ジェーローニーモー!」のノリで。
  • 智勇兼備、ルックスもイケメンな佐藤義清の退場回。
    いつだってナオンにモテモテの俺様が、初めて本当に恋したあの女に「愛とは何か」を教えてくれるわー!
    →愛を教えたら女性は元彼のもとに走っていった。
    →自分は逮捕され、しかも目の前で女と元彼のSM恋愛劇場を見せつけられた
    絶望した!完全に道化の自分に絶望した!
    →出家。
    あんまりと言えばあんまりな扱いに、清盛も号泣。
  • 前に清盛や義朝と、「将来どんな武士になりたい?」とか青春めいた談義をしていた義清が、かかる悲惨な羽目に陥ったのはもちろん、白河(の亡霊)、鳥羽、崇徳、得子、そして待賢門院璋子が業と業をぶつかり合わせる朝廷伏魔殿に、足を踏み入れたからなんだけど。
  • 女にモテモテで腕も才も立つと言っても、所詮彼のキャラクターは少年漫画に出てくる美形キャラに過ぎないわけです。Gガンダムのジョルジュとか、天才マンとか。「俺は誰よりも美しくありたいのだ…」とかキザったらしく言う系のジャンプキャラ。そんな奴が、ごきげんようの後13時半から始まるような昼ドラ時空に軽いノリで迷い込んでしまったのが悲劇だったわけで。
  • 結果、見事に檀れいに絡め取られることになったわけです。「メタ認知重点。僕は自分を客観視出来てます。」なんて言う奴ほど危ない。清盛んちに遊びに行ったら海賊に挑発されたから、相撲くらい取ってやりますよ、四股だって踏みますよ的な男が、「俺のモノにならないのなら、いっそ殺してくれるわー!」と斜め上の行動に出てしまうわけです。(それはそれでジャンプっぽい気もするが)

俺は誰よりも美しい

  • 義清は美学に徹する男なので、とにかく物事の美しさに基づいて行動しようとする。そして彼にとっての美しさと言うのは、「一番素直な形に収まっていること」である。「矢は的の中央に当たるのが美しく、歌はその場に最もふさわしい言葉が選ばれることが美しい」と言うように。つまり、筋が通っていることを重んじる男だ。だからこそ、崇徳院が遠ざけられる現状に疑問を投げかけ、「人を愛する」と言う当たり前のことが出来ない璋子を愛おしく思う。
  • そんな男だから、自分の美学に基づいて(いると錯覚して)行動して、結果的に自分のやったことが何一つ筋を通していなかったと気づいた時、頭丸めちゃうくらいの勢いで怒りと絶望のダークサイドに落ちちゃったわけです。へうげもの8巻で、自ら真の侘び数寄の芽を詰んでいたことに気づいた利休の如く。

「どうあがいても己で己が許せませぬ」

  • 「父様、ほら、美しいでしょう」って手に集めた桜の花びらを見せに来る娘に「そうだな、美しいな…」って自分の醜さを思い知る義清のシーンは、そういう美学の喪失、俺の黒歴史発現的な意味でかなりの名場面。だったんだが。

史実再現とドラマ

  • だからって、そこで幼女を蹴り飛ばすのはおかしいと思うんですよ!(力説)
  • もちろん、そこは西行の逸話になぞらえたのは判る。そこを抑えようとしたのは大河的に正しい。


西行の逸話

  • 出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁から蹴落として家を捨てたという逸話が残る[1]。
西行 - Wikipedia
  • このドラマの史実の拾い方は、基本的にかなり秀逸だと思います。逸話を活かせるように、綿密な伏線を張って、その場面が無理なく再現出来るように気を遣っているのは、とてもよく判る。ただ、この場面はおかしい。話の流れ的に、筋を通せない自分への怒りを、さらなる無理筋で上塗りしているようにしか見えない。何と言っても幼女を蹴り飛ばした!それはよくない!(大切なことなので2回(ry
  • ドラマの説得力を優先させるか、史実を優先させるかと言うのは割と難しい問題だと思う。どうしても現在の価値観とは異なるところもあるだろうし、その人物の総評や、ドラマでのキャラ造形とは大きくかけ離れた逸話が出てくることもあるだろう。大河ドラマなのだから、当然歴史(史実)には敬意を払って描いて欲しいが、それで話の筋そのものが通らなくなるのなら、それはやはり美しくない物にしかならないのじゃないだろうか。義清的に考えて。
  • とりあえず自分が、この『平清盛』に対して一番評価しているのは、「覚えきれないほど数多くのキャラたちが皆、生き生きと自分の筋を通して動いている」というところだ。他にも良い点は山ほどあるけど、特に群像劇ドラマとしての出来は傑出レベルだと思っている。そんな魅力的なキャラたちが、「史実」によって筋をねじ曲げられているのは結構悲しかったりする。ほとんどの場合は、かなり見事な史実と脚本の融合をしているのだけれども。だからこそ、たまに見える今回のような力技が出ると辛いものがある。
    • 主人公の清盛が一番、その力技の被害に遭っていると思う。物語の主軸な以上、すり合わせなきゃいけない史実が多いだろうから仕方ないんだけど。

その他

  • 今回消える義清だけど、割と早い段階で西行になって、京を彷徨いながら都合のいい場面に登場する妖精となる未来を知っていると若干のシュールさがある。お前、割と元気だよね。
  • 長くなったので、鳥羽院・璋子のSM夫婦漫才についてはまた今度考えよう。「説得力のある愚かさ」と言うテーマで。愚かさ2.0!
  • 頼長と信西(まだ高階通憲)が、二人して仲良く論語を合わせ読みしてるシーンで「うーわーーー!!」ってなった。後の保元の乱での、「孔子を引用しながら解釈が真逆」という名シーンの伏線がこんなところに!

次回は「もののけの涙」。ザ・良妻、明子さんの退場回ですね。この回もオチが酷い。TwitterでTL実況見てたら、たまたま初見でこの回を見た平野耕太先生が「今年の大河は、いいや」と切ってしまった哀しみを目の当たりにした回。あれは悲しかった。先生!違うの!いつもは…こうじゃないの!清盛はもっと出来る子なの!と叫びたかった11話の夜。