『ジャンゴ 繋がれざる者』 監督:クエンティン・タランティーノ

年の初めからDVD見たので、久々に感想なぞ書く。ネタバレとか気にしないでダラダラといくのでご注意。


ジャンゴとキング・シュルツ
映画の流れとしては、あくまでジャンゴの物語である。黒人奴隷のジャンゴが、幸運にもドイツ人の賞金稼ぎキング・シュルツに助けられ、自由を得る。利害の一致からシュルツの相棒として腕利きの賞金稼ぎになり、離れ離れになった妻のブルームヒルダを取り戻すため、奴隷商人で大農場主な白人ディカプリオの屋敷に潜入。いろいろあった末に血みどろの銃撃戦を繰り広げた後、無事妻を救い出し、めでたしめでたし。
ストーリーは単純だが、それを語る役にジャンゴの友人、白人賞金稼ぎのシュルツ医師を当て、彼の目線と思考に沿って話を進めたことがこの映画を味わい深いものにしている。

キング・シュルツはこの映画においてとことんイレギュラーな異邦人として描かれている。開拓世界の外から来たドイツ人であり、アメリカ南部の常識である黒人奴隷制度を良く思っていない。元医師であり、教養ある文化人でありながら、何故か賞金稼ぎというアウトロー稼業で生きている。理知的で黒人にも敬意をもって接するが、無教養な悪党には一切容赦することがない。合理的な考え方をする一方で極度のロマンチストであり、損得よりも友情や筋を通すことを優先する。
この映画はあくまでジャンゴの事情に基づく話だが、物語を動かし進めるのは、常にこのシュルツの決断や心情の変化によるものになっている。この辺を話の流れに沿ってまとめつつ、ベラベラ語りたいと思う。

  • 二人の出会いからジャンゴが賞金稼ぎになるまで

最初の時点でも、確かにシュルツは既に奴隷制度反対主義だった。ニガーと呼ばれる黒人奴隷たちを人間として、礼儀を持って対等に扱おうとしていた。しかしそれはあくまで、彼の『流儀』の話だった。「白人が偉く、黒人は劣っているという考え方はおかしい」と言う彼の良心に基づく主張に過ぎず、それ以上の意味を持ってはいなかった。その時の彼に黒人の知り合いは居なかったからだ。
だから初めて出会ったジャンゴや他の黒人に対して、彼が取る態度は「保護者、庇護者」としてのスタンスだった。本人は敬意を払っているつもりでも、それでもどこかで黒人を『下』に見ている部分があった。
それが変わるのは、彼がジャンゴの過去と事情を知ってからである。ジャンゴが妻帯者であり、離れ離れになった妻を取り戻すため戦おうとする『高潔な人間』であることを知った時に、シュルツはジャンゴを対等の存在として見るようになり、ブルームヒルダ奪還に協力を申し出るまでになる。
そして二人はコンビの賞金稼ぎとなる。まだ文字も読めず経験も少ないジャンゴであるので、シュルツは彼の『教師』としての役割を果たすことも多かったが、それでも基本的なところでシュルツはジャンゴを尊敬に値する、対等の相棒として接していたと思われる。

  • キャンディ牧場の地獄の中で

ブルームヒルダの居るキャンディ牧場に入ってから、シュルツの黒人への思い入れには、また変化が訪れる。
アメリカ南部に生きるアウトローである以上、当然シュルツは白人が黒人にどういう仕打ちをしているかを知っている。知識としてはジャンゴよりも豊富だったかも知れない。しかし、実際に白人たちが黒人に対してどれほどまで悪辣に、非道になれるかを、シュルツは知らなかった。見たことがなかった。
そういう点ではむしろジャンゴの方が、(実際に虐げられていた側として)米国人というものを熟知していたと言える。
なので、カルビン・キャンディと接触して以降は、どちらかと言うとジャンゴの方がイニシアチブを取って話を展開させていたように思う。(それでも、話を先に進めるのはシュルツなのだが)
思うに、シュルツはこのブルームヒルダ奪還作戦を甘く見ていた。ジークフリードのおとぎ話のように、友人の囚われた妻を機転を利かせて取り戻し、めでたしめでたしとなる単純な話だと思っていた。ブルームヒルダが囚われている場所が、どれほどの地獄かと言うことに思い巡らすことをしていなかったのだと思われる。奴隷同士で殺し合いをさせ、使い物にならなくなったら余興のように犬に食わせる。言うことを聞かないのなら裸で灼熱の地中に放り込み、食卓で平然と肌を晒し見世物にされる。これほどのことを平然と出来る「人間」に対して、シュルツは強い恐れと怒りを抱くようになっていく。

  • 売り言葉に買い言葉、煽り合い合戦の果てに

この辺から、話はただの妻奪回作戦ではなく、主義・主張・道義を掛けた『象徴』の奪い合いへと変貌していく。
シュルツとジャンゴが相対する白人農場主カルビン・キャンディは悪辣ではあるが、決して賢明な人間では無かった。教養も無く、器も小さく、親から受け継いだ自分の土地で王様を気取るのが関の山の男であったが、だからこそ『自分の城』を守ることに掛けては容赦をしない。『自分の城』とは、『這いつくばる黒人たちの上に君臨する白人の自分』という価値観である。
その価値観を守るため、カルビンはシュルツ達の策謀を打ち破ってからも、徹底して「黒人を物として扱う」と言う姿勢を崩さない。ブルームヒルダを自由にするのは、あくまで自分とシュルツの売買契約の結果であり、そのために必要なルールは全て守らせようとした。シュルツに対しても、全力でジャンゴとブルームヒルダを物扱いさせようとしたのである。シュルツはそんなカルビンの無教養を喝破し、カルビンが王様でも何でもないただの馬鹿であることを指摘する。それでもカルビンは怯まず、最後にシュルツに対し握手を強要する。黒人の自由意志など存在しない。彼らの人生は、白人の都合によってのみ決まる。彼の持つ白人ルールの片棒を、シュルツに担がせようとしたのである。事ここに至り、ついにシュルツはキレた。

  • シュルツからジャンゴへ

カルビンの外道な振る舞いを見せられてシュルツが我慢を続けたのはもちろん、穏便にブルームヒルダを救出し、友人である二人の黒人に平穏をもたらしてあげたかったからである。そんな彼が最後の最後で、「すまん、我慢できなくて」と言いカルビンを殺したのは何故か。それはジャンゴとブルームヒルダの、人としての尊厳のためである。徹底して黒人を物扱いし、誇りを踏みにじり続けるカルビンたちに対し、ただ自分たちの「売った、買った」の末に得た自由など何の価値も持たない。それを自由と呼んではいけないと、キャンディ牧場の地獄の中でシュルツは考えていたのではないか。彼は道義として、友として、ジャンゴたちに自由を、自らの手で勝ち取って欲しいと考えたと思われる。
しかし、それはシュルツのエゴである。なんと言っても、このまま余計なことはせず、黙ってカルビンと握手さえすればジャンゴとブルームヒルダの安全と自由は保障されるのである。道義はどうあれ、筋の立つ立たないは置いておいて、二人は平穏な人生を手に入れることが出来るのだ。何もしなければ。
当然、シュルツもそれは判っていたろう。だからこそ、最後に「すまん」と謝罪したのである。今からの行動で、自分の勝手な我がままのせいで、ジャンゴたちはまた地獄絵図の中に放り込まれる。それでも、二人には戦って、そして勝ってほしかった。責任は取れないが、まず真っ先に自分は死のう。という。
結果、当然のようにジャンゴはまた死ぬような思いをして戦いの渦中を潜り抜けることになる。一度取り戻した妻もまた奪われ、改めて救出のため戦わねばならなくなった。それでも、ジャンゴにはシュルツの意志が全て伝わっていたことは、後にシュルツの遺体に対面した時のジャンゴの行動から判る。ジャンゴは彼の遺体から売買契約書を抜き取る。ブルームヒルダの自由の証明であるその紙を、シュルツの手から受け取ったことを示したのだ。そして彼に「アウフヴィーダーゼン」と声を掛ける。シュルツの母国の言葉であり、敬意を込めた別れの挨拶。また会おう。

この美しすぎる別れのシーンを経て、ジャンゴは最後の最後でついに自由を得、ジャンゴアンチェインド(繋がれざる者)へと生まれ変わるのだった。


変身ヒーロー・ジャンゴ

この映画の中で、主人公のジャンゴは何度かの衣装チェンジを行う。その度に話の中でのキャラクターに変化が生じるので、その辺に注目してみる。

  • 奴隷ジャンゴ

冒頭から復讐を開始するまで。髪はボサボサ、服はボロボロ。人間扱いされていない状態。
フィジカルな面では十分な強さを持つが、自分から喋ることは余りなく、シュルツの言う通りに動いている。

  • 従者ジャンゴ

自分を虐げていた白人どもに復讐を開始した状態。パリッとしたド派手な青服に身を包み、散髪もしてハンサムに。
一個の戦士であり、この映画の主役であることを映画を見ている人間にガッツリアピールした。

  • 相棒ジャンゴ

パンフにもなってる一人前の渋ガンマン状態。腕利き賞金稼ぎシュルツの相棒の風格を備えダーティーな演技や役割も難なくこなし、十二分にウェスタン映画の主人公である。

まさかワインレッドが似合うとは状態。シュルツとのブレインハンドシェイクを経て、真の自由を獲得したその姿は正にヒーロー。
小粋な丸メガネに煙草をくゆらし、馬に乗ってはおどけてみせる無敵のガンマンである。彼のことを、「南部一の早撃ち」と人は呼ぶ。

斯様に話の中で変身を繰り返し、最終的にマカロニ・ウェスタンのヒーローの代名詞、ジャンゴにふさわしい男となっていったのだ。

タランティーノの映画

そんな感じでダラダラと喋ってみて、やっぱり舌を巻くのはタランティーノの圧倒的構成力だなあ、と。長回しで延々喋り続けるシーンが多く冗長的だとよく言われるが、振り返ってみると無駄なシーンが殆ど無い。台詞量が多い分、キャラの心情の機微が多めに表現されていて、先の展開の説得力に繋がる訳ですよ。何気にとても繊細な仕事だと思われる。タランティーノの映画はどうしてもボンクラ御用達みたいな部分があるわけだけども、どこかで人に対する優しさみたいなものが感じ取れてしまってホロリとする。喋り足らんティーノ的な意味での無敵のコミュ力が、人間の心情の全てを網羅する博愛主義になって映るのかしら。母になるための物語だったキル・ビルとか。山田風太郎的な意味で女性礼賛のデス・プルーフとか。イングロリアス・バスターズとか。やっぱりボンクラか。
キルビルでがっつりハマって以来タランティーノのファンを公言してやまないけど、このジャンゴのおかげでさらに好きになった感がある。表に出てくる分、監督のキャラ込みで好きになれるのが強みと言うかなんと言うか。今後も楽しい映画を作っていってもらいたいもんだ。恐らく一生付いていける。